2011年5月18日水曜日

先進国の原罪


電力会社の社員は、日本社会の一員か?


これを読むと私が子供の頃から思っていた疑問と本質的には同じことが語られているように思います。大正以降の日本人の原罪、もっというと先進国の原罪だと私は思います。勘違いとも言えます。人間は自然物なのです。型通りには絶対ならないのです。にも関わらず型を徹底的に押し付けてきました。その結果は内的大破壊でした。

自分の理想とする像を、自分は除外した上で(これが罪深い)、教育という名のもとに押し付けます。しかも「こうあるべき」「あああるべき」と事細かに相手の人格や能力、反応を考慮にいれず指示し、執拗かつ繰り返し型にはめようとします。それが叶わないと気づくや「ああ、コイツは駄目だ」と心の中でレッテルを貼り突き放し突然沈黙します。なんと残酷なことでしょう。身勝手なんでしょう。子供は親や大人たちを無条件に受け入れるため致命的に破壊されてしまうことも少なくないように思います。

された方は自分が自分でわからないほどに歪んでしまい、わからなくなっているでしょう。大人により自分という自然を破壊され尽くされてしまえば、余程の運か偶然がない限り自分で治癒できないのは当然だと思います。癌細胞がある程度増えれば正常な細胞すら最後には破壊され尽くすのと同じで、最後には気づかないうちに自分で自分を破壊し尽くしてしまうからです。

これは大脳判断を行動原則にした結果に思います。心で行動すればこうはならないでしょう。躾は必要だと思いますが、人として必要な躾はそう多く無いように感じます。よく子供に「嘘をつくな」と言いますが、どれほど大人が嘘をつくか。そして、相手のことを慮ってついた嘘を罪と言えるでしょうか。私は言えないと思います。

細かいことは社会が結果的に教えてくれます。社会は型であり、その型の中で成り立っているからです。しかし、その型は無数の型があり、個々の能力の柔軟性で必ず許容できる型はある筈です。本当の意味で特殊な能力、天才というのものは1%もいないでしょう。異端なのです。そして異端だから世界を救ったりします。でも天才は孤独だと思います。協調できる型は他にないのですから。

型が無ければいいと仰る型もおりますが、型はあった方がいいと思います。過剰な型がいらないだけです。型がない、本当の自由は同様に異なるベクトルの自己崩壊を生むに過ぎません。自由はもっと恐ろしいです。過剰拡散に伴う自己破壊、薄まりすぎて味がわからなくなると言えばいいでしょうか。肉体にしても一定の型通りに動くから機能するのであって、型を放棄したら一瞬で死に絶えてしまうでしょう。機能不全です。型は必要なんです。過剰な型がいらないだけです。

親や大人達にとっての子、上司にとっての部下、上部組織にとっての下部組織。全て同じように思うのです。過剰な型は自然を失い結局自己崩壊の元にしかならないように思うのです。今の日本は完全に内部崩壊が始まっています。止めないと、これ以上進めば手遅れになってしまいます。手遅れと言う人もいいますが、諦めるのは簡単です。少なくとも諦めたらその時点で終了です。希望は最後まで胸に抱きましょう。