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2019年6月22日土曜日

健康:ヘルペス


6/25追記)
 明日皮膚科へ行って抗ウィルス剤をもらって来ることに決める。(;´∀`) 最近は塗る抗ウィルス薬もあるようなので。記事を書いてから3日、異変に気づいて5日が経過。症状は少しずつ軽くはなってきたものの牛歩の如く。日常にも少し差し障りあり。自前の免疫力だけではまだまだ時間がかかりそうなので科学の力を借りることに。
 それにしても最近は何に罹患しても比較的に重篤化しやすいと実感する。今までのように免疫力だけで治そう!とはいかなくなってきたことを痛感する。
 アトピーも今年は重篤化し、上半身全体に広がり眠れない日々。そんな状態でも割と平然としていられるものの、5月は渡欧もあり止む負えず20年ぶりに皮膚科を訪れる。医師に「うわ!これは大変だ!」と言われる有様。一線を超えると自然治癒力で戻るには相当な時間と根気が必要で、その時間で相当疲弊してしまう。体力つけないと。

2013年9月6日金曜日

ITmediaニュース:宮崎駿監督の「公式引退の辞」全文 「ぼくは自由です」

2013年09月06日 15時40分 更新
宮崎駿監督「公式引退の辞」全文
長編映画からの引退を表明した宮崎駿監督。本人による「公式引退の辞」を全文掲載する。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1309/06/news063.html
(引用)
公式引退の辞 宮崎駿
 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。
 もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。
 ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。
 “風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果たされてしまいます。
 長編アニメーションでなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。
 これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけるようになりますが。
 それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。 ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。
 ありがとうございました。
以上
2013,9,4

2013年8月29日木曜日

自然の変化たるや

生来の横着からシクラメンが完全に枯れた後もそのまま置いておきました。
捨てようと思った時、枯れきった姿というのは無常観の他にも独特な美を感じられ思いとどまったのです。

そのまま置き続けますと春にはまさかの緑の茎が中から出てきて葉を茂らせます。
これは面白い景色だなーと日々眺めました。枯れた葉と新たな命が混在している。枯れた葉を整理するのは躊躇われ、そのままにしました。

自然とは逞しいものです、あるがままを受け入れその背景には生きることが大前提としてあります。さすがに花は咲かないだろうけどこの変化を見ていたいなと、申し訳程度の世話をしてますが、先日そのシクラメンの葉に幼いカマキリがひょっこり顔を出してます。幼体なのか、身体は小さく黄色。葉の上を表に裏にと歩いています。

その姿に美を感じつつ生命の純粋さと力強さに胸を打たれました。かく柔軟でありたいなと。
人間も自然の一員ですから出来ない筈はない。目の前で起きる様々な事象を受け入れつつ瞬間瞬間の生を十二分に活かしたいものです。

2013年8月1日木曜日

映画:風立ちぬ

風立ちぬ公式サイト:http://kazetachinu.jp/

先日のこと。姉妹が所属するオケのコンサートから帰った後、兄弟宅で雑談。
そこで 「風立ちぬ凄い良かったよ、私は好きだなー。あんたも好きだと思うよたぶん」と言われ思い出しました。そう言えば宮崎駿監督の最新作が公開中です。彼の作品だけは唯一欠かさず映画館で見ております。

アニメは最早宮崎アニメしか観ないといっても過言ではありませんが、今回は今までとは違った意味で興味がありました。子供の為にしか映画は作らないと豪語し、終生実行していた氏が、最も嫌いで忌む 戦争 に纏わる映画を作るという点です。この裏にはプロデューサーの鈴木敏夫氏の働きがあったそうで、「もうそろそろ氏自身の中で向き合って清算してもいい時期なのでは?」といった旨の話をされ、当初は激昂していた宮崎氏が受け入れたとか?自らのカルマといいますか、トラウマと氏がどう向き合い、映画を通して答えを出すのか非常に興味がありました。そういう意味では、全く今までとはコンセプトが異なる映画なのでしょう。当然のことながら子供向け映画ではないと考えていました。

本当に美しい映画でした。

才能豊かで眉目秀麗、良い環境で生まれ育ち、清々しくも隆起した精神をもった主人公とのその周囲の人達による凛とした生き方に強く胸をうたれました。既に6時間以上たつものの未だその余韻が残るほどの強烈な印象をえ、「自らの心の構えを改めなければいけないな。出来る範囲で・・・」と強く思った映画でした。洋の東西を問わずこのような経験は始めてに近い感覚です。

当初 堀越二郎の声に違和感をおぼえましたが、それは中盤を過ぎる頃には「なるほど」と強く納得し、終わる頃にはこの声で良かったと思いました。恐らくあの監督でしょう?声から伝わる彼の少年のような精神性には感動すらおぼえました。なるほど彼の作品であるあの内容がああなったのも強く頷ける気がします。あの声が無ければ堀越二郎は完成しなかったように感じました。けして気丈ではなく、不器用で、でも真っ直ぐで痛みを知っている声に感じました。

前半は大きな物語的な緩急もなく最初は退屈に感じました。しかしそれが中盤以降への説得力というか納得というかバックボーンになります。堀越二郎氏の精神性の裏付けにもなり良かったようにも感じます。前半は主人公が置かれた背景を言葉ではなく動きで描いていたので退屈に感じるのも仕方がありません。逆に非常に丁寧に周囲が描かれているので、そうした楽しみ方が出来ると思います。2度、3度とみると前半部に感動しそうです。彼の行動一つ一つに大きく感銘を受けると同時に自らの卑しさにちょっと胸を痛めつつ鑑賞しました。それぞれの表情が本当にいいんです。

関東大震災、戦争という非常に大きな災厄ばかりが続いた中での話にも関わらず彼は世間というものに注視、流されることなく、でも十分な教養と感性でもって十二分に置かれた状況を知りつつ、それでも彼の友人のように口に出すことなく、自らの目線で自らの夢にのみ注心していくその姿の美しさときたら・・・。だから暗いものが伝わってきません。描き方も実に秀逸で、周辺の様子に目をやると、きっちり描かれた国民の表情は誰も暗く猜疑心も強そうに描かれています。笑顔はなく不躾で不遜、そういった感じです。いや仕方がない話ですが。ただ彼と周囲の纏わる人々の表情だけは凛として清々しく、深い教養と情け深い心をもって描かれている。

彼や彼女はハイクラスな環境に生まれ、豊かで恵まれ、才能もあった。という点は間違いありません。誰しもがそうした環境でいられるはずもない。ただそれでも妹の加代が必ずしも二郎や菜穂子のようでなく、どちからというと現代的感覚をある程度もって描かれていたように、必ずしもハイクラスな環境で才能があればかの二人のように生きられるわけではないということが伝わります。結局はそうした気質をもった人々だったのではないでしょうか。そうした気質を持ち合わせていない自分ではありますが、意識的構えでもってある程度自らの舵をきることは誰しも出来ることだと思います。何か、自分も可能な範囲で彼彼女らのような清々しくも美しい精神性でもって少しでも過ごせたら・・・と強く心に刻まれました。終わり方も美しかったなぁ・・・完全に音楽すら食っていたかもしれない。

こうなるとストーリーがどうだとか、構成がどうとか、何がどうだとか、演出がとかどうでもよく、ただただ主人公の生き様と彼女や周囲の人々の清々しくも凛としたありように胸をうたれました。自分の人生を、心の構えを考えさせられました。野尻先生が言う、「小細工はいらない。メッキははげるから。生き様が全ての表示に出るから無様な精神的構えしかなければどんなに技術が優れていても、取り繕ったところで無様なものしか出来ない」というのが痛感します。同時に 「人が真に感銘を受けるのは技術ではない、技術は結果的に必要ではなるけれど、それは目的ではなく手段である。むしろ技術を磨くよりも精神を磨いた方が作品はよくなる」と言っていた意味もよくわかりました。


閑話休題

新宿って映画館凄い増えたんですね。一時、映画といったら有楽町ばかり足を運んでいたので久しぶりにみるのですが、新宿ピカデリーが出来てそこで何回かみたぐらいで後は知りませんでした。昔は新宿といえばコマ劇場前でしたが、すっかりピカデリーしか頭にありません。しかもネットで席を事前に予約することが出来るようになっており支払いも済ませられるという。時代ですねぇ。最新技術とサービスは利用せざるおえない私なので早速ネットで席を予約し購入。油断してました・・・。現場へ行くと、買ったチケットの上映館がピカデリーじゃないし!!w 換券端末で予約番号の桁数が全く違うので驚いてカウンターへ行くと、「ここじゃないですね」とのこと。暑さのせいか、最近こうしたポカを連発しております。たまたま早めについたので20分前。スマホのマップでみるも位置関係がわからず、結局は別な映画館で訪ね最後は人間力で現場へ辿りつけました。私の焦りを察したのか慌てず丁寧に教えていただいてありがたかった。新宿バルト9。そんなのが出来てたんですね・・(;・∀・)。 ピカデリーは白基調、清潔感はあるもののどうも精神的に落ち着かない空間でした。バルト9はベージュ基調で全体が柔らかく落ち着いておりとてもよい感じ。今後はちょっと足を延ばしてバルト9にしようかな。この映画はほんと老若男女で幅が広いようで子供はほとんど見当たりませんがチラホラ。いかにもな若人の賑やかなグループから、焦る私の前を80歳以上とおぼしく老夫婦が仲良くエスカレーターで上がっておりました。上映開始直後に着。席も幅がありゆったりしておりグッドです。ロビーでは過去作品のポスターがずらりと並んでおり懐かしく拝見いたしました。予告で観ましたが「かぐや姫」面白そうです!!線画の美しさが凄い。間に合うのでしょうか?w 今からワクワクです。まだ映画が見られる環境であることを祈ります。そういう世界、国、時が長く続くことを願います。今こうした状況というのがいかに恵まれているか身にしみます。

2013年5月15日水曜日

lifehacker:ある企業のCEOが「9日間の完全なネット断ち」で得られたもの

2013.05.01 18:00
lifehacker:ある企業のCEOが「9日間の完全なネット断ち」で得られたもの
http://www.lifehacker.jp/2013/05/130501completely_disconnected.html
(引用)

9日間の休暇が終わる頃には、力がみなぎり、心が豊かになった感じがしました。脳が落ち着き、注意力を自分でコントロールできる状態に戻ったのです。その過程で、自分自身の奥底を再発見することもできました。留守中に何か緊急事態が起きたら連絡は取れるようにしておきましたが、幸か不幸か私の口出しが必要な事態など1回も起こりませんでした。たいていの事は待ってくれるものです。 
(中略) 
まず、1週間のうち2日は、一日の始まりの数時間を自宅で過ごし、メールもインターネットも見ないで、集中して注意を向けなくてはならないプロジェクトに取り組むこと(今日もそうしてから来ました)。もうひとつは、仕事を終えて寝る前に、最低でも30分は本を読む(そして十分に楽しむ)ことです。何かに完全に没頭するために大切なのは、定期的に完全なネット断ちをすることです。

ニコニコニュース:東大卒独身男が20年続ける「豊かな無職生活」

ニコニコニュース:東大卒独身男が20年続ける「豊かな無職生活」
http://news.nicovideo.jp/watch/nw612949
(引用)

ぼくの年収は、約100万円。日本新党の立ち上げに関わった一時期を除けば、会社をやめてから、親が遺してくれた古マンションの賃貸料でやりくりしてきた。 
国民年金保険料や国民健康保険料、NHK受信料、住居費などを支払うと、1カ月間で使える食費、光熱費、通信費、交通費などの生活費は、3万円。1日3食の食費は、500円。当初、月の生活費は8万円ほどだったが、それではプータロー生活の継続が難しい。そこで、5万円、3万円と徐々に落とした。 
だが、ムリをして切り詰めているわけではない。ストレスが溜まるほどの節制を自らに強いるなんてもってのほか。月3万円あれば、節制や我慢とは無縁な豊かで楽しい毎日を送ることができる。いま、そう実感している。 
(中略) 
ぼく自身も、毎月3万円で楽しく過ごせると知ったら、働かない罪悪感も将来への不安も消えた。1日1日をいかに豊かに生きるかを第一に考えるようになった。 
だからといって、明日どうなってもいいというわけではない。いまの暮らしを健康に続けるため、毎朝の散歩と筋トレ、体重の管理、そして瞑想。日々、心と体のマネジメントは欠かしていない。
ときにはパソコンの故障など、予想外の出費もある。それも踏まえて年間の予算を立てる。それがうまくいくのも、またうれしいのだ。 
状況に合わせて、いかに面白さや幸せを見出すか。選択肢は無限にある。

2013年5月2日木曜日

現代ビジネス:対談 堀潤 × 津田大介 【第2回】 原発事故という「緊急時」に、NHKは「平時」のルールを適用してしまった

2013年05月01日(水)  対談 堀潤 × 津田大介 【第2回】 原発事故という「緊急時」に、NHKは「平時」のルールを適用してしまった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35662
(一部引用)

津田 堀さんの卒論は、ナチスのプロパガンダと戦時下のNHKのプロパガンダを比較するという内容だそうですが、これは要するに、NHKのかつての体制を批判しているわけですよね。面接で「こんな卒論を書いた人間です」と言って採用されたわけですが、面接官は卒論の内容について何か聞いてきたんですか? 
 僕はNHKを受けるとき、ある意味で「確信犯」として、卒論での主張を一つの武器にしようと思いました。面接でも「新聞メディアは社説を通じて『自分たちの戦時下の報道について反省を表明し、ああいうことは絶対に繰り返さない』と述べたけれども、NHKは『旧逓信省の管轄下においては致し方ない報道だった』と言っただけで、要は『あの国家体制に組み込まれていたのだから仕方がなかった』というスタンスを取った。これはきちんと検証しないといけないと思う」と主張したんです。 
津田 それは思い切ったことを言いましたね。 
「仕方がなかった」という姿勢は改めなければならない。さもないと、今でもテレビが何か問題を起こしたとき、「すみません、そんなつもりはなかったんですけど」みたいに曖昧にして話を終わらせようとするやり方は変わらない---。そんなことを面接でも話しましたね。
津田 NHKのプロパガンダの責任論の話って、原発事故に敷衍すると、「原発は国策でやっていたので、原子力保安院のガバナンスも効いておらず、検査がゆるゆるなのも仕方なかったんです」と言って、東電と保安院が責任逃れをするようなものですね。

(私見)

「仕方がなかった」という言葉を言えてしまう時点で実は本質的に受け止めていないという気がします。それを言いたくとも黙って聞き、自分なりに消化しない限り結局は繰り返してしまう。

師ともそんな話たことがありますが、「それは 逃げ でしかない」と言ってました。それを聞いた時に偉く胸が痛かったことを思い出します。「反論する間は反省がない。真に反省していればどんな見当違いな意見だろうが聞けるはずだ」と。

父は特定のニュースに対して過剰反応し汚い言葉を吐き捨てるのですが、それは周囲からすると得体のしれない憎悪でありストレスなんですね。いい加減大人になってその繰り返しが腹に据えかねたので、それを父に言ったら「お前は何も知らない癖に!」と怒鳴ってきたので、「じゃーなぜそうなったか教えてよ」となり、「言ってもわかるか!?」と言い出したんです。それで頭に来て言論バトルになました。結局は自らを恥じ入る気持ちが強いからこそ、その内なるストレスから逃れようとして憎悪が外へ出るのだなという内容でした。結局は消化していない。消化する方に視点を置けないが故なんだなと、父の姿を見て自らの後ろ姿も見ました。父と関係がよくなったのはそれがキッカケでした。

2013年4月8日月曜日

人間の幅2:不理解と理解1:血縁という存在1:幼少期の人間には歓びしかない

結論は1で書いたことが全てである。
それ以上のことは今後の連載で出てくることはないだろう。
ただ、それそのままでは理解しづらいかもしれない。
そこで自分の人生を振り返りつつ解いてみたい。


人間の幅1:可能性はいかに受容するか


自分の人としての幅をいかに広げられるか、去年からの私のテーマになっています。
それは師に以下のようなことを言われたのがキッカケでした。
これをシリーズで不定期に書いていこうかと思う。

才能は生まれる前から決まっている。
それは変えようがない。
他人を羨んだところで「ああそうですか」程度のもの。
なんの慰めの言葉にもならならい。
芸術とは才能の限界を知り得て初めてスタートラインに立てる。
限界を知るには自分から逃げないことが肝心になる。
それが下準備であり、限界を知らないことには一歩も始まらない。
だから限界を知るために修行時代は必要だし、若くて損はない。
そこで、若くないからと逃げる人がいる。言い訳は逃げだ。
その時点で芸術から遠い存在となる。
人はしばしば忘れがちだけれども、若さは必ずしも利点だけではない。
むしろ欠点が多い。
老いは視野を広げ、視点をえ、何より体感を得ているのが大きい。
若さよりも遥かに短距離で的をえることが出来るだろう。
修行と考えた際に、過去の規範である名画、銘石、名曲には重要な意味が出る。
それらを簡単に再現出来ればいいだろうがほとんどは出来ない。
何故なら彼らは天才だからだ。
出来なければそこで限界を知ることが出来る。どこまで出来て、どこまで出来ないのか。
落とし所は知る日々が続くだろう。そして搾りこめる。
あっさり出来た人を他人様はその背景を知らず実に簡単に羨むが、それは不幸なことでもある。
何故なら限界を知り得ないなら、自分で探さなくていけない。
自分で探すということは天才業である。
つまり天才とは孤独であり、道を切り開くものとも言える。
世間では規範なく自由に探すことがさながら恵みであるかのように言うがそれは違う。
凡人が天才の道を歩くことは出来ない。それは不幸なことである。
己を知らないということでもある。
天才であるが故に、ともすれば自分の限界を探すだけで一生を終える人もいる。
それはスタートラインにつけず時間切れを意味する。
そういった作品は当然優れたものであるが、芸術かと問われると話は別だ。
違うと言える。
それは本人が一番よく知っているだろう。
あっさり限界がしれた人はその点で幸福である。
修行時代に入るのは若くて損はない。
無茶をしないと限界は把握できないからだ。
大作を書くには物理的な体力がいる。唯一若さの利点はそこにしかない。
体力もまた才能である。
大作をして初めて己を知ることが出来る。
自分の才能が自分のものでしかないように、限界もまた自分のものでしかない。
そもそも一人の才能なんて実に小さなものでしかない。
それが天才といわれるような者であっても同じである。
才能は変えられないが唯一人間としての幅、許容量は変えられる。
その為には、自分以外のものをいかに受け入れるかにかかっている。
相手を受け入れることはどんな人間にでも出来る。
かかる時間や方法は人それぞれで、そこにはやっぱり才能が関わってくるけど。
最終的に受け入れることで許容量は変えられる。
他人の視点をいかに素直に意識を介在せず行動に移すか、うつせるか。
それが唯一誰にでも残されたチャンスだと思う。
その点において人間は平等である。

この話は何回かに分けて師からもたらされたが、
私の人生の中で感動し希望というものを想起させた数少ないテーマのような気がします。

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