2013年4月8日月曜日

人間の幅2:不理解と理解1:血縁という存在1:幼少期の人間には歓びしかない

結論は1で書いたことが全てである。
それ以上のことは今後の連載で出てくることはないだろう。
ただ、それそのままでは理解しづらいかもしれない。
そこで自分の人生を振り返りつつ解いてみたい。



不理解の範疇

不理解には範疇がある。カテゴライズ出来る。単に理解出来ないという1つの枠には収まらない。少なくとも私はそうである。だから、理解出来ない=拒否 にはならない。人が幅をもたせられるとしたら、不理解からの理解がもたらしてくれるに思う。つまり不理解は理解への大いなる栄養であり希望を伴った未来の要素とも言える。完全なる理解は不可能であろうが、逆にそれは幸福なことかもしれない。完全なら理解は停止を意味する。停止は活動の終了で、人に言い換えればそれは精神の死にもつながりそうだ。

なぜ?どうして?なんで?不理解への好奇心

甥が3歳の頃。事務所へ来ると5秒に1回は「これなん?」と聞いてきた。「これ何なの?」と言いたいのだろう。私はその度に、「これはね」とパソコンを全くわからない大人に説明するようにゼロから説明をした。それはかなり大脳を消耗し、仕事へすら影響する行いだったが、未来ある彼に対する大人の義務と責任だと思い、一つのやり甲斐あるライフワークととらえ全身全霊をもって応じた。今もその点では変わらない。

誤魔化さない大人に子供は鋭敏に反応する。

彼の質問は更に増えていった。彼は黙って私が話終わるまで聞き、終わると同時に、「これなん?」と別なものを指し聞いてくる。これを延々と数時間か繰り返す。親にこれを求める人がいるが、それは無理がある。これは周囲の大人であるからこそすべきことに思えた。昔は祖父母や同居する兄妹の家族が行なっていたのだろう。もしくは近所の大人たちだ。
私が子をもつ親になったら「ごめん、今は無理!」と正直に謝るだろう。それは謝罪の意味を込めてだ。
話たところで当然幼児は理解はしない。そもそも理解すると思っている方が見当違いだろう。それでも尚理解することを前提に話す。それが大切に思えた。それで子供は満足を得られる。そこが視点だった。
中には「あなたは説明するのが上手だから」とか「説明するのが好きだから」という人がいたが、それはまるで見当違いのことに思えた。私は好き嫌いで言えば説明するのは嫌いだ。大嫌いである。面倒臭いからだ。「知らない」と言ったら1秒で済む。燃焼する必要もない。自分の時間に戻れるので楽である。人に真摯に説明するにはかなりの燃焼を要する。疲れる。パワーを使う。理解する気が本当にあるならまだいいが、ほとんどの場合は理解する気がないのに聞いてくるからたちが悪い。大人のことである。
子供は素直に興味があるから聞いてくる。そこには興味>不理解への理解という精神のうつろいがある。しかし大人はその精神の移ろいが感じられない。知らない>恥>プライド>聞く という行為が多いように思う。その根本において興味がないように思う。子供と決定的に違う点ではなかろうか。

子供は自らが興味がないことには目が向かない。

特に男の子はそうだ。だから子供に話す方がやり甲斐は強く大きい。子供と対峙すると、いかに自分という存在の限界が低いかということを思い知ることが出来る。理解が前提で丁寧に1つ1つ応える。甥は話の内容ではなく私の背景を受け取り納得する。
「やりたい」ということも繰り返しやらせた。「危ない」というのは外側からの視点だ。実際危ない場面もある。ヒヤヒヤもする。それはこちら側の問題だ。当時は自らが責任をもっていざとなったら飛び込んでダイビングキャッチするぐらいの気概をもちながらやらせた。思えばそれすら見当違いな考えであった。今思えばそれすらも不要である。そもそも命の責任なんて誰もとれはしない。それを十分知りつつ覚悟をもって対応するだけでいいと思う。誰も最終的に責任をとることは出来ない。そのためには「やらない限り」彼の幅を広げる助けは出来ないのだ。無謀なことをヤレという意味ではない。今の大人は明らかに言い過ぎに思える。

ほとんどの場合は彼らは大人ほど愚かではない。

何せ脳も肉体もフレッシュだ。はるかにある意味では賢い。私は同じ注意は2度しないように気をつけた。わかっているけど、やりたくなる何かがあるのだろう。と背景をしりつつ見ていた。その為に生じた粗相について苦言をていしないよう努力した。彼はある時、スピーカーの出っ張りがきになり、指で押そうとした。

「それはやっちゃダメだよ」
「どして?」
「この道具はその出っ張りがあるからいい音をならせるんだよ。それを潰してはいい音が出なくなってしまうでしょ」
「うん」
でも彼は押したいという好奇心には勝てなかったようだ。
しばらくした後に、私の目を盗んで押した。
1つだけ押した後、「これじゃバレる!?」と思ったのだろう、もう一つもご丁寧に押していった。(;・∀・)
彼は以後、そのスピーカーを意図的に見ないようにしていた。それに気づきながら私は何も言わないでおく。その態度で十分だった。「悪いと思っている」のだ。既に甥は、この態度でもって「ごめんなさい」と言っていると考えた。今でもこの凹みを見ると懐かしく思い出す。座椅子の肘掛けをジャンプでへし折ったこともある。その時も何も言わなかった。車の上で飛び跳ねたこともある。最初はグッと我慢して見ていたが、だんだんエスカレートしていき、それ以上飛ぶと凹んで戻らなくなると。「ごめんねーそれ以上は飛ばないでー」と言った。彼は以後、我慢して飛ばなくなった。我ながら小さい男だなーと思ったが、それがひとつの限界であった。人は言い訳をするごとに弱くなると最近感じる。条件をつけるほどに弱くなる。自分を貶める。相手に言い訳をさせるのも同じ。相手を弱くし、自分も弱くなる。道連れだ。彼に言い訳をする機会を与えなかった。ずる賢い大人にはしたくないと同時に、これ以上自分が弱くならないためというのもある。

子供は1秒たりとも無駄にしない。

それらを通し、子供は歓びの中に身を浸していると感じた。ある日、祖父母に書くより、食事をするより真っ先に私に絵を描いてくれたことがある。絵といっても幼児だから、棒人間に顔がある程度なのだが。その心の背景に感動した。二人で遊んだ出来事が描かれていた。家に帰り、食べるよりも先に絵に描いて渡してくれたのだ。その背景に打ち震えてしまう。今も冷蔵庫にその時のまま張りっぱなしになっている。本人は「絵が上手ではない」と理解した上で渡してきた。子供とはなんと凄い。

私は甥に見返りを求めたことも、逆にお返しをしたこともない。お返しという行為そのものが相手の思いを踏みにじることになりかねないからだ。大人になると不思議と理解出来なくなる。師も礼を嫌う。「礼というのは、礼が必要なほどの関係ということであり、つまり他人ってことなんだよ。目と目があって頷く、この行為だけで挨拶は終わっている。その最たるものが子供だよ。だから子供に挨拶を強要する大人は大嫌いなんだよね。それは世間体を気にした自分の見栄でしかない。言いたければ自分が言えばいい」と言った。私は疑問に思って避けてきたことでもある。他人同士なら必要だが、真に親しい間柄では必要がないという考えだ。

私は子供にお金を渡したことがない。

それを1度でもしてしまうば取引になってしまうと考えていたからだ。これは小学生の頃の体験からくる疑問が起因している。小学生の頃、「嬉しいけど、なんで大人はお金を渡すのだろう」と疑問に思っていた。

甥の行為を見て気付かされた。あれは「サボっている」のだ。嬉しいという気持ち、感動の心を表現することをお金を渡すことで解消している。子供はサボることを知らないから、共に遊んだ感動を得ると、それを表現したくなる。それが絵を上げる行為であったり、折り紙をおってくれたり、手伝ったりする行為に現れる。子供にサボりはない。サボるこを知らないから。もし行動に出ないとしたら、感動がないからである。感動を与えていないとも言える。大人は感動をしてもサボる。意識が働くからだ。

単純に渡すことがいけないわけじゃないと思う。

いや本音を言えばそれは悪いことだと思っていた。今となってはそうではないと思う。人には能力の幅が産まれながらにしてあり、中には表現しえない人もいるからだ。だから、単純にお金を渡すという行為に走らざる終えない人もいる。お金を渡すというのも一つの表現。しかし、それ意外の表現が出来るのに、それをするとなると、「サボり」であろう。ただ「サボる」人がいないと子供もままならない。実際のところお小遣いは欲しい。

サボる人がいて、サボらない人がいる。それでいて初めて世界は回る。サボるのが単純に悪いことではない。さぼらざる終えない背景を抱えているか、そうでないかの差は大きい。雲泥の差である。私は子供の頃から疑問に思っていた背景があった。親戚からお小遣いを貰うと、嬉しい半面その人を見ると 「お金━(゚∀゚)━!」 と反応してしまう自分がおり、いたく卑しい人間に思えて勝手に落ち込んでいたこともある。でも彼、彼女らは実際私に「お金しか」もたらしてくれないのも事実だった。与えないのだから返しようがない。私はいつの間にか「せめて話だけは聞こう」との姿勢をもって接するようになる。これが私の個性なのかもしれない。しかしほとんどの場合は子供扱いして「大人は何も語らない」というこを思い知らされた。それは酷く落ち込むものだった。その背景を得て、私は子供扱いにはしないことに決め今がある。理解出来るかどうかは才能とキャパシティの問題であって、子供であるか大人であるかは問題ではない。だから最初から「どうせ理解できなだろう」と嘘を言うなら、いっそ黙っていた方が誠実に思っていた。思えば不誠実な大人が実に多かった気がする。その背景を感じてしまい落ち込むのだ。話が通じないことの孤独を感じた。

何故大人は子供を愚かで理解出来ないと決めつけるのだろう?

そういう疑問があった。10人いれば9人は「理解しないだろう」という背景をもって接してくる。これは私にとって苦痛だった。それなら話かけなければいいのにと思いながら真剣に話を聞く。真面目に対応すればするほど話が噛みあわない。それは相手が「話が通じる」と最初から無意識に思っているために起きるのかもしれない。「理解できない」ことを前提に話し合うことで得られる結果は最初からわかりきっている。「理解できない」結論をその時はえるだけである。子供の私としてはココまでの把握が限界だった。今となってはやはり幼いのだ。その点では間違いがない。
「理解できない背景を背負ったまま相手が話しをしていることを十二分に理解しながら、理解しようという姿勢で話す」そういう人を人生で初めて出会ってから私の大前提は崩壊した。それが今の師である。その時は「理解できない」としても、「理解出来る日も来るいう背景をもって話す」ことで、人は変わるということを知り得た。現実は圧倒的に理解はされないのだが、それを知りつつ、理解出来ることを前提に置くことで人間はガラッと変化する。実は自分も家族に対してはそうして来たことに気付かされる。