自分の人としての幅をいかに広げられるか、去年からの私のテーマになっています。
それは師に以下のようなことを言われたのがキッカケでした。
これをシリーズで不定期に書いていこうかと思う。
才能は生まれる前から決まっている。
それは変えようがない。
他人を羨んだところで「ああそうですか」程度のもの。
なんの慰めの言葉にもならならい。
芸術とは才能の限界を知り得て初めてスタートラインに立てる。
限界を知るには自分から逃げないことが肝心になる。
それが下準備であり、限界を知らないことには一歩も始まらない。
だから限界を知るために修行時代は必要だし、若くて損はない。
そこで、若くないからと逃げる人がいる。言い訳は逃げだ。
その時点で芸術から遠い存在となる。
人はしばしば忘れがちだけれども、若さは必ずしも利点だけではない。
むしろ欠点が多い。
老いは視野を広げ、視点をえ、何より体感を得ているのが大きい。
若さよりも遥かに短距離で的をえることが出来るだろう。
修行と考えた際に、過去の規範である名画、銘石、名曲には重要な意味が出る。
それらを簡単に再現出来ればいいだろうがほとんどは出来ない。
何故なら彼らは天才だからだ。
出来なければそこで限界を知ることが出来る。どこまで出来て、どこまで出来ないのか。
落とし所は知る日々が続くだろう。そして搾りこめる。
あっさり出来た人を他人様はその背景を知らず実に簡単に羨むが、それは不幸なことでもある。
何故なら限界を知り得ないなら、自分で探さなくていけない。
自分で探すということは天才業である。
つまり天才とは孤独であり、道を切り開くものとも言える。
世間では規範なく自由に探すことがさながら恵みであるかのように言うがそれは違う。
凡人が天才の道を歩くことは出来ない。それは不幸なことである。
己を知らないということでもある。
天才であるが故に、ともすれば自分の限界を探すだけで一生を終える人もいる。
それはスタートラインにつけず時間切れを意味する。
そういった作品は当然優れたものであるが、芸術かと問われると話は別だ。
違うと言える。
それは本人が一番よく知っているだろう。
あっさり限界がしれた人はその点で幸福である。
修行時代に入るのは若くて損はない。
無茶をしないと限界は把握できないからだ。
大作を書くには物理的な体力がいる。唯一若さの利点はそこにしかない。
体力もまた才能である。
大作をして初めて己を知ることが出来る。
自分の才能が自分のものでしかないように、限界もまた自分のものでしかない。
そもそも一人の才能なんて実に小さなものでしかない。
それが天才といわれるような者であっても同じである。
才能は変えられないが唯一人間としての幅、許容量は変えられる。
その為には、自分以外のものをいかに受け入れるかにかかっている。
相手を受け入れることはどんな人間にでも出来る。
かかる時間や方法は人それぞれで、そこにはやっぱり才能が関わってくるけど。
最終的に受け入れることで許容量は変えられる。
他人の視点をいかに素直に意識を介在せず行動に移すか、うつせるか。
それが唯一誰にでも残されたチャンスだと思う。
その点において人間は平等である。
この話は何回かに分けて師からもたらされたが、
私の人生の中で感動し希望というものを想起させた数少ないテーマのような気がします。
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