2011年11月30日水曜日

YouTube:カオス

an illuminating metaphor for the process of biological evolution



なんなんだこれは?ということで、
どういう内容なのかは各ブログ解説がわかりやすい。

どうしてこうなった…?1本の線を500人が次々なぞる伝言ゲーム的実験が凄い結果に
http://www.kotaro269.com/archives/51308793.html
(引用)

プログラマーであり、アーティストでもあるクレメント・ヴァラさんが500人の被験者を対象に行なった実験は、「前の人がなぞった線を同じようになぞる」というシンプルなもの。
最初の1人がなぞったのは、縦に引かれた1本の線。
それを手描きでなぞるとちょっとした歪みは当然発生し、次の人はその歪みも正確に再現しようとし続け、し続けて500人。
最終的な結果からは元の線がまったく想像しがたいものになってしまったのだ。
【動画】「前の人がなぞった線を同じようになぞる」伝言ゲーム、500人で実験したら凄い結果に
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679941.html


(私見)

色々な意見が寄せられておりそれも興味深い。
私がこれで感じるのはカオス理論である。

結局のところ、
人間は大勢集まると一本の線すらまともに引けないようだ。
過剰なルールの無意味さも同時に感じる。
学者や頭のいい人や超能力者(いたとして)が、どんな教鞭をふるおうが、
最終的にどうなるかは誰にもわからないということに思う。

それは意図的に外す人がいることも含めての意味である。
完璧にひこうと努力する人、
なんとなくだけで、ある程度は真面目にひこうとする人、
はなっからいい加減な人、
途中まで真面目で、その後放棄する人、
意図的に混乱させてやろうとする人
その結果、誰もが想像も出来ないようなものが生まれる。

カオスそのものである。

しかも面白いのはなまじ真面目な人がいる関係で乱れが継承される点にある。
これはデマの広がりにも通じるように思う。
つまり広げるのは真面目な人のように感じた。
大多数の真面目な人が不真面目な結論はわざわざ継承してしまう。

真面目というのは囚われも意味する。
私も根がクソ真面目なので、なるべく不真面目に傾くよう努力もしており、
口で断定的に言いながら、常に模索し、同時に自己否定をしている。


世のかなの圧倒的大多数の事象は
真面目な人が大多数であるからこそなせる。
形は真面目な人がなす。
しかし、それはいずれ事象の固定化をうみ、最終的には死に到達する。
機能しなくなるのだ。
ところが、不真面目な人間がいるとそれが変化をもたらす。
うまく噛みあえば真面目な人間には想像も出来ない変化を生み出し生き生きとしてくる。
真面目な人間はそれを非難しながらも、
結局はそれが自分のためになっていることに気づかなったりもする。
本質的に不真面目な人を正すことは出来ないが、
同時に真面目な人を不真面目な人にすることも同様に困難だ。
私などがそうだが、不真面目に振る舞うことにストレスを感じてしまう。


これらはまるで生命そのもののようである。

師は私に説いた。

「皆さん私のところに来られる人は、不安だ不安だという。
将来が不安だ。
仕事が不安だ。
子供が不安だ。
社会が不安だ。
放射能が不安だ。
皆口を開ければ不安しか言わないね。
であれば、真なる安定って何だと思う?」
私はこう話た。
「真の安定・・・それはひょっとして死ではないですか?」
「その通りだよマッちゃん!!
土台生きているのだから安定はしない。
それでも心は安定を求める。それは当然だ。
安定、不安定、安定、不安定で揺れる。
その繰り返しが生きているということ。
生命に出来ることは、その幅を出来るだけ小さくすることだけだ。
その為には、
生命とは不安定なものである。
一寸先は誰にもわからない。
常ではないということを把握する必要がある。
逆に言えば不安定を楽しむという構えも大切だよ。

そうした安定と不安定の振れ幅は一朝一夕にはならない。
日常の歩みで決定される。
自然が徐々に変化し調和を生み出すように、
心の平静も調和と同じですぐにどうこうできやしない。
毎日の積み重ねだよ。
それが多くの人は出来ない。
できないのなら安定に向かわない。
心の振れ幅は身の丈にあったもので終始一貫する。
良くも悪くも今の自分が本来の意味において安定していることうことだ。
急な変化は一時は良いように思えてむしろ安定を根底から崩し、
収束できないまま崩壊してしまうこともある。

ありもしない未来に目を向け自らを不安定な方向にあえてもって行っている。 
そして口では安定、安全としゃべっている。
実におかしなことだと思わないかい?
行動と言葉が真逆だよね。それに気づいていない。

そもそも皆の求める安定に限りなく近づくと、
振れ幅が小さくなる。
つまり動きはむしろ激しくなる。
となると、律した日常生活をおくるのは当然として、瞬間、瞬間に対応した心の柔軟性が更に必要なる。それは激しさをます。
つまり余程の心術に長けた人間でない限りその境地には至らない。
まー我々一般人には土台無理な話なんだよ。

今の安定より更なる安定を目指すなら、
生きるとは不安定なものだと把握することと、
同時に自らを受け入れ、
その上で生活を律するしかないね。
それが何一つ出来ないのなら、それがあなたの安定なのだとしか言い用がない。

僕には昔から何の不安もないよ。
やれることは全部やってるからね。
出来ないのは才能がないから仕方が無いと受け取っている。
だから不満も不安もない」

先生は出来ないことで自分にとって不要なことは一切感知しない。
気にしないのだ。
「才能がないと思って諦めてくれ」とハッキリしておりそこにすら迷いはない。

そういえば昔の話だが、
先生は10年ほど前までファックスを受信することが出来なかった。
今でも送信は出来ない。父君にまかせているようだ。

あの時ファックスが受信できないと手間取ることがあり私は繰り返し繰り返し教えようとした。
先生はそれを拒絶し続けたが、ことあるこごと言っているうちに多少なりとも触手が動いたようだ。
それから二年後ぐらいからようやく出来るようになった。
「出来るとなんてこたーないね」
と先生は後に笑ったが、今でも不測の事態になると受信できなくなる。

当時の私は、

「先生、ファックスの受信なんて1回ボタンを押すだけですよ。簡単ですやりましょう!」
とすすめたが、先生は頑としてやろうとしなかった。
「その必要はない郵送すればいいじゃないか」
の一点張りだった。
それでも機会を見つけては、
「スタート/ストップで書いてあるボタンありますよね。それを押すんです」
と言ったが、
「そんなボタンはないじゃないか!」
「いや、あるんです。よく見てください」
「ない!もういい。速達でだしてくれ」
と繰り返した。
それから徐々に進み、
ボタンを理解していただけたが今度はタイミングがわからなかった。

「いいですか先生、ピーゴロゴロってなったらスタートを・・」
「(プープー)」電話がきれた。
「切れたよ?どうなっている?」
「間違って受話器を置いたのではないですか?」
「置いちゃいけないの?」
「ええ・・・電話きれてしまいますからねぇ」
「んで、どうすればいい?」
「えっとですね、私が押してくださいと言ったら・・」
「わかった(ピーガーゴロゴロゴロ)」(受信が始まっている)
「でないじゃないか、どうなっているんだ?」
「すいません、まだ送信する準備が出来ていませんので・・
私が『ボタンを押してください』と言ったら、押してもらえませんか?」
「面倒だなぁ。ファックスは今度にしよう。郵送で送って下さい」
「いや、先生もう後一歩なんですよ。ですから・・・」
「郵送でお願いします」

といったやり取りを何回も何回も繰り返した。