2011年12月5日月曜日

野尻泰煌:人陰がない

野尻さんは底がしれない方だ。
だいたい人は底はしれないものですが、
それでも、3年も合っていれば大体の色はわかりそうに思う。

ところが先生はまる虹のようなお方だ。
挙句に万華鏡のように虹はうごめいている。
捉えどこがありそうでない。
言葉の上辺だけとると「180度逆のことを言ってからかっている!?」とさえとれる。
しかし相手をあしらうようなことは一切言わない。
彼は常に真剣だ。真摯だ。
例え相手が「バブー」とか言えないような年齢であれその姿勢は変わらない。
年下、年上、関係ない。男、女、関係ない。
全ての発言は、まるでラピュタで飛行石が示したように真っ直ぐなのだ。

俯瞰でみるとまるで安定していることに驚く。
虹がうごごめいたまま安定しているようだ。
その状態でどうして安定しているのか理解に苦しむ。
何一つブレがない。
私が死んだら、師にお経を読んで欲しい。
それこそ安らかにいけるだろう。




野尻さんは常に気を使っていることがある。
厳密には、気を使わずに、使っている。
その一つに、

「人陰がないこと」

これを重視している。
その意味は、

「真に優れた作品には人陰がない」からだそうだ。

作品ばかりではない。
人そのものについても言えると仰った。

野尻さんを知るには一対一になる必要がある。
一対一以外ではその片鱗すら知ることも難しい。
捉えどころがない。
何故なら、師は多対一になると人陰を消す方向に結果的に喋るからだ。

人陰を消す意味について直接的な質問はしたことがないが、
端的に言うとこういう結論になる。

「もっとも自分らしく歩むには全てを削ぎ落した方がいい」

野尻さんは常々、自分探しの滑稽さについて語っていた。
ある時こんなことを仰った。
「皆は自分探しに夢中なようだけど、僕は自分を消すことに夢中だね」
満面の笑みで自分を消すことの難しさを教えてくれた。
最終的に消すことは出来ない。
消せないからこそ自分を消す努力をすることでバランスが生じる。

自分探しは自分を知ることも消すことも出来ない。
全く何者でもない存在にしか当たらないだろうと野尻さんは語られていたように思う。
探し始めた時点で自分から離れ、
これだと思った段階で、まるで異なるものを結びつけている。それは自分ではない。
自分が描いた自分の妄想である。
妄想は自分をただただ歪めるものでしかない。
鏡ばかり見る人に自分の姿は見えてこないとも仰った。

人陰がない事を好むのであれば、
私がこうして野尻さんのことを語るのは本来師の意思を疎外していることになる。
それは間違いない。
師はそれを望まないことも明らかだ。
それでも私はこうして書いている。
それは私に込み上げてくるものがあるからだ。

私は以前伺ったことがあった。
「カクカクシカジカで先生のことを書いている私は先生の意思を無為にしていることなりますね。
人陰を与えているわけですから。
消しましょうか?
もう書くのやめましょうか?」

先生はしばしだまり

「それはマッちゃんが考えることだよ。
マッちゃんは僕の意思はわかっているよね」
「はい」
「その上で自分の中から湧き上がるもので書かざる終えない部分で書いている」
「そうです」
「それが他力だよ。
多分、『僕が止めて』と言えばマッちゃんは止めてしまうでしょ」
「相手が意思を示してまで嫌がることをしたくありませんので」
「つまり僕が君の湧き上がる思いを殺すことになってしまう。
それは僕が一番嫌いなことだよ。
であれば、結論は出ているよね?マッちゃん」
「わかりました。スイマセン、時々無性に書きたくなるものですから」
「謝ることでないよ。その湧き上がるものが何より大切なんだよ。
頭で考えて行動したことなんてたかが知れているよ。
湧き上がるものででしか人は勝負出来ない。
それを大事にしな。
それは僕の範疇にはない」

かくして不思議なもので、
意思を知りながらも私はこうして真逆のことをやっている。
「人陰がない」ということは「語らないこと」である。
それをヨシとする師の思いを知っているし、尊重もする。
しかし、湧き上がるものを感じる時は、それを知りながら私はこうして書いている。
野尻さんはそれを他力と言い、あるがままに受け止めている。