つくづく感じる。
難しい。
言葉とはなんと不自由なものかと思う。
真意が伝わらないばかりか逆にとらえられてしまう。
情報の量を調整しても、
内容の質を調整しても、
伝わらない人、伝わらない時、には伝わらない。
そこに苛立ちを感じるのは、
「伝わるはず」という前提があるからなのでしょうねぇ。
伝える側の一人相撲なのでしょうか。
伝わらない理由は、読みつまんだ学者先生の情報からもうかがえますが、
往々にして話をしている側の提供情報量が少な過ぎるというケースより、
聞く側が話を想像力で補完してしまうケースが圧倒的に多いようです。
聞こえてはいるが、聞いてはいない。
意識する、しないの問題ではなく、能力相違といったもののようです。
「伝える努力はお互いしつつも、それでも伝わらない事実を知る」
ということでしょうか。なんか、そのような漢詩もあったよう気がします。
密教などもたしかそうな具合でしたね。
言ったところで理解はできないから、下手な人には言わない。
言わないと「教えてー」ってなるから最もシンプルな表現にとどめる。
そしてそれを一般は悟入をする。
面白いですね。
言葉は多くても少なくても、
あっても、なくても伝わらない時は伝わらない。
そのようなもののようです。
令和七年2025年巳年元旦
1 週間前
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