2011年7月3日日曜日

「もののけ姫」を観て思う

7/1金曜日に宮崎駿監督の「もののけ姫」がTV放映されました。
私は当初この作品は要素が多すぎてあまり好きではありませんでした。
「何度も観ないと片鱗すらも理解できない作品だ」と、頭の片隅においていました。
その後、ことあるたびに観るのですが、観ればみるほどこの作品に強く魅入られ、
宮崎作品の中では最も多く観直し、好きな作品の一つになりました。

先日もTVを観て、
日本人の、また人間の本質的な問題に深くついていることを改めて痛感し、
今までとは違った次元で胸を揺さぶられました。
何も知りえないもの。
利用され、おのが欲に躍起になるもの。
半ば自暴自棄ながらも生きんがために自分が利用されていることを知りながらも夜叉となり、いいなりになる者。
ことの重大さをなんら理解せず、ただ自分の役目を遂行しようとするもの。
憎しみにのみ己の身を焦がす者。
最も多くを理解し、見通した上で、それでも尚道を模索しようと命を惜しまないもの。

死を振りまくデイダラボッチはまるでメルトダウンした原発の放射性物質のように見えました。
逃げ惑うもの、命を落とすもの、何が起きているかすら理解しないもの。
そして、勇気ある行動をもったアシタカともののけ姫だけが自らの命に恐れることなく鎮めることに赴き(最後、死にいたいる呪いが全身に周り、もののけ姫ですら一瞬戦慄したのが印象的)、運も味方をし収めることに成功しました。

あれほど守り育んできたタタラ場を、アシタカの助言を聞き、即捨てる決意をし、行動にうつし、助けあいながら逃げるよう指揮したオトキさん。
「福島にこういう指導者がいれば・・・」と思いを巡らせたり、

正門が逃げる時に、アシタカに言われた通り水辺へ向かう最中、
パニックに陥り正門からそのまま逃げようとするもの。
オトキさんが、「そっちに逃げちゃ駄目だ!」との声に耳をかさず、
デイダラボッチに流され死すもの。

燃え盛るタタラ場をみて、もう駄目だ。何もかも終わったと絶望する者。
「生きてりゃなんとかなる!!」と叱咤するオトキさん。

まるで今の日本そのものです。
ただ、残念ながら指導者にオトキさんのような方はおりませんでした・・・。


この映画は、人間の業は業としても、現実はなってみるまではわからない。
最後はどうあれ、それを受け入れるしかないということを感じました。
「もののけ姫」ではある種のハッピーエンドで幕をしめましましたが、
ある種の最悪の結果として終えているのが漫画版の「風の谷のナウシカ」です。
是非読んで欲しいですねぇ。
現実を受け入れるということが、いかに恐ろしく覚悟がいることか。

現に今も原発では多くの労働者が抱えきれないほどの被曝をうけながら収束に当たっています。
その逆に、一刻も早く原発を再稼働させたいと、その意味を理解することもなく宣う責任者がおります。
その結果は誰にもわかりません。
全てをひっくるめて受け入れるしかないのでしょう。
戦いたい人は戦い。
事の重大さを理解せずに利権に縋りたい人はすがる。
理解できない人は理解できないまま日常生活を営む。
個々が個々の思いを抱え、個々の判断で生きていくしかないように思えました。

そうして世界は誕生から破滅まで紡いでいく。


出来ればアシタカのようにありたいものですが、
圧倒的大多数は不可能でしょう。
アシタカは才能と環境が育んだ奇跡の人のように思います。

「もののけ姫」の中でいえば、自分がどういうタイプだろうか、後で妄想してみました。

「俺はアシタカだ!!」と言いたいですが、
言う前から「ちゃうちゃう」と自らが応えます。
自分に嘘はつけません。
アシタカなんて到底無理です。

いました。

アシタカのことを「旦那、どうしなすったんだい?」と声をかけるオジサン。