2013年8月29日木曜日

LINEに見る変化の兆し

はじめました。
私の中にある線引ではヤラないほうがいいサービスの筆頭にありました。
その為やっておりませんでしたが甥と先月話した時に興味深い発言を。

「メールは面倒臭いんだよね。だから全く見てない」

これは私にとっては衝撃の発言でした。
メールが当たり前の中で仕事をしてきた私からすると「メールが面倒なのにラインは面倒じゃない」という感覚はありません。正直大差ないのです。
ここに新しい感覚の息吹、ジェネレーションギャップを感じ、彼がやっているので「オジサンもやるか?w」と声をかけ始めることに。当初あった勝手に繋がるサービスも選択制になったのも理由でした。


以前このサービスに類似したものを得意先に提案し実現化しませんでした。なのでこうしたサービスがそのうち来るだろうという予感はありましたが、その時の感覚に彼の言うものはありませんでした。「メールが面倒」で「ラインは楽」という線引が感覚的に理解出来ませんでしたが、その一つの背景はもう一人の甥が答えを教えてくれました。

「読みたくないダイレクトメールが多すぎる」

彼らは無料サービスにやたらと登録するので毎日五万と読む気のないメールがDMとして送られてきます。メールを熟知している人からすれば読む必要がないメールを排除する方法はいくらでもあります。どうやら今の中心となる利用者はそういう発想そのものがないようです。機能を知らないということと、その「振り分け処理」を設定することそのものが「面倒臭い」ということのようです。

「これだ」

と思いました。つまり今の利用者は無意識に家電感覚でスマホやタブレット、PCや各種サービスを使っているのです。だからスマホの難しさに愕然としてガラケーに戻ろうとするユーザーが鰻のぼりなのも頷けます。私のように「わかっている人が使う」という時代から既に移行し新たなステージへきているように感じます。ただしそれはあくまで意識だけれのレベルです。

機械やサービスは到底その息に達していないばかりか、熟練者からうすると明らかに危険なサービスが寧ろ増えています。ただ、車は急に止まらないという言葉があるように、民意というのは慣性力が強くそうそうは止まりません。そうなると企業は必死に食らいつきます。法整備も遅れてされるでしょう。これらが十分に機能仕出した時に新たなコンピューターサービスと人との関係が築かれるような気がします。

正面向かうと喋らない世代)

正面きると話さないのにこうしたチャットでは饒舌になるということは度々目にします。実際の話でも、恋人と隣どうしてチャットで会話して声をしばらく聞いていないということも耳にします。親子でもそうです。親には相談しないのに、ネットの見ず知らずの人には吐露出来るのです。これは防衛本能が今の世代は極めて強いということの現れに思います。別な言い方では困難に立ち向かう意志力が薄い。かつては、チャットで無口な人は本人もそうでした。閉鎖的な社会が個々の防衛本能を肥大化させそれを促せる環境もある為に更に大きく強くなっているようです。

ドラえもん で既に描かれた世界が)

これは名作「ドラえもん」でも描かれています。何でもかんでも「いいよいいよノビちゃんは間違っていない」という美人のロボットにより(拠り所)将来のび太が浮浪者になるという話です。そのビジョンを見たのび太が恐怖して居心地がいいそのロボットと決別する物語ですが、まさに今のネットがそれに近い役割を果たしつつあります。師が仰るには 「繊弱な社会」 ということで、非常に頷けます。私なりに言うと「逃げられる社会」と言えそうです。そう書くと非常にネガティブな印象を持ちますが、これは別な言い方では「幅のある社会」と言えます。つまり使いようによってはプラスにもマイナスにもなるということです。こうした社会では人との繋がりがやはり希薄になりいかようにでも取捨選択できるということが考えられます。だからより多くと繋がろうとします。薄い関係を数で補おうとする本能のようなものではないでしょうか。ただし取捨選択できるということは取捨選択されるということを失念されているように思います。

そういう社会)

目の前にいる人と住人分に会話出来ずにスマホばかり気にしている人も少なくありません。私はそういう人はもう会いませんけど。目の前の人と十分に会話出来ないのに、より情報量が少ない人と深く関わりをもつことは不可能なことに思います。最終的にはフェイス・トゥ・フェイスに優るものはないんですけどね。情報量が圧倒的に違いますから。ただそういう社会であるということは感じて損はないかなと。時代感覚というのは作家側として知っていて損もないのでしょうし。やってみないとわからないものです。噂通りスタンプが面白いですw