私は感情表現がオーバーだとよく言われている。
あと、大げさとか。
そう指摘される度に「そうじゃないんだけどなー」と思っていた。
「大げさ」というニュアンスには、非難が込められているに思う。
元を大きくみせるわけであるから「作為」ということになる。
であれば、非難に通ずる。
私は作為はない。
作為の話で盛り上がることは出来ない。
実際にない話、感動のない話で盛り上げるには相当な訓練が必要である。
だから漫才師や落語家は長い修練があるのだろう。
修練の果てに作為話を自然に笑える形へもっていくことに成功する。
そこまで行くには、並々ならぬ努力、才能、もしくはその両方が必要だったりするだろう。
では、どうして「大げさ」というのか。
それは表現が間違っていることに気づいていないからではなかろうか。
正確には話に「ついていけん」とうことなんだろう。
ついていけない苛立が非難をこめた「大げさ」に転化され、より誤解を深めるきっかけとなる。
何についていかないか。
それは相手の「感情の大きさ」ではなかろうか。
大げさなのではない。
大きさなのである。
感情の大きさ、感動の大きさである。
これっくらい驚いた、これっくらい感動した、これっくらい!の結果が表現の強さとなり、話のうねりとなる。
草書と同じである。改めて私は「根っからの草書人間なんだ」と気付かされた。
草書はうねりが表現となり面白さにつながる。
会話も同じだ。
「人志松本のすべらない話」を聞いているとよくわかる。
面白い話の人には、独特なうねりがある。
そのうねりが、語り側と聴き側で同調した時に大きなうねりとなって伝わる。
語り側が大きくうねっていても、聴き側が置いてけぼりをくらったら大きなうねりにはならない。
ましてやうねりがない人の話は、どんなに凄い話でも「へー」で終わってしまう。
つまり、
聴き側が置いてけぼりをくらったため、「大げさ」=「同調できない」となる。
そこにはスタンスの差がある。相手の立場にたつか、自分側にたつかで言い方がかわってくるのではないだろうか。
毎回自分側に立つ人は往々にしてして「大げさ」と連発しがちに思う。
そういう人の話しはもっと面白くないことも少なくない。全くうねらないからだ。
なるほど!
「置いてけぼりをしてしまったのだな」と理解できた。
話好きは大概よーしゃべるので、相手が同調しようがすまいが、置いてけぼりをくらわせたと気づいてもそのまま走ってしまうことも少なくない。それをコントロールするのがプロなのだろう。サンマちゃんあたりは本当に凄い。うねりそうもない話は、自分が凄い気に入っていてもさっさと切り捨てしまう。それをいとも自然にやるのだから実に素晴らしい。
私も少し反省をし、あまり置いてけぼりをさせないようにキャッチボールをしようと思った。
一人でかってに走っちゃうとボケそうだしねw (;・∀・)
最後に脱線するが、
どうしても勝手に話したいならカレンダーや日本人形にでも話しかけたらどうだろうか?と考えた。
・・・うねらない。
まだまだ私は正常なようだ。これで盛り上がるようならちょっとヤヴァイか天賦の才があるかどちからであろう。
(十中八九・・・前者だw)
写真、人形とわかっているのでうねりようがない。そもそも聞いてないどころか生きてすらいなのだから。
やはり生きている方がいい。生きていれば、言葉は理解しなくとも感情は伝わりそうな気がする。言霊だから。
なるほど!
だから、犬や猫を買いたがるのね。と気づく。
私は以前から犬が欲しかった。
しかし、何故か自分の中の人が「やめろ!それをやるとお前つむぞ!」と警鐘をならす。
自分で自分が不思議だったが、どうしても買いたい時があり、買うことに決めた。
しかし、今一度調べてみようと何気なくみたサイトに「一人ものは犬猫かったら最後。なぜなら癒されるから満たされてしまう」と経験者談があり、一瞬で冷めたことがある。俺の中で、もう一人の俺はドヤ顔で頷いている。
「ほらな」
もちろん人によるだろう。
私は恐らくダメになるタイプに属すると直感的にわかった。
それでも時々だが犬が欲しくなる。
四半期に一度遊びにくる叔父がいる時に「犬ほしいなぁ」と何気なく呟いたら、
「犬の前に嫁さん!嫁の前に女でしょ!」と言われた。
セーブしながら話すと興がとんで楽しくないから嫌なんだけど、
それも訓練かなー。慣れれば自然にできるようになるだろう。
生きるとは訓練の連続だ。
2025年(令和7年)1月放送予定
1 日前
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