2011年2月8日火曜日

急速な変化

お世話になっている社長さんとよく色々と議論をする。
その中で、10年前は「ネットって世界を動かすほどのインパクトがないね。意外だったよ」「ほんとそうですね。驚くほどです」と話していた。そして、それは半永久的に変わらないものであるかのような安定感をもっていた。それほどまでに人の心は変わらないものであり、人の習慣も変えられないものであるのだ。
事実、六ヶ所村核燃料再処理施設の問題といいメディアはほぼ無視をかこつけ、ネットで相応な騒ぎになりながらも、それは一般の人々には波及することはなく、結局は予定通り可動することになった。インターネットや市民の力など、所詮はマスメディアや巨大な権力には叶わないものなのかと失望感にも似た落胆をおぼえた。結局、そうした問題で特をするのは既得権者であり我々ではない。ババをひかされるのは100%我々である。

しかし、ツイッターという新たな伝達手段が登場し、世界は急速に変化をしだしている。ツイッターがどういうものはかは検索して頂きたい。このサービスは単純で自由度が高いために使う側を選ぶ。使う側が本来の意義を理解しない場合、それは機能しないし、また「大したことないね」で終わってしまう。この時点でネットの潮流にたいして自分の感覚がズレていると知ることが出来るだろう。私は検索エンジンのGoogleが登場した時のような鮮烈なインパクトを感じたことは以前も書いた。(別なブログでだっけかな)これは何かが起きるかもしれない。そう感じさせるほどのアイデアとポテンシャルだった。

2年が過ぎ、「相変わらずネットの影響力なんて毛ほどもないもんなんだなぁ」と様々なニュースをみて思っていたが、エジプトのカイロで起きている暴動、内乱を知った時、それは間違いであることに気づいた。ネットの影響力は既に大きくなっていた。この暴動がここまで発展した経緯にはツイッターがあったと知った。そして生中継だ。今や生中継に大げさな機械は必要としない。携帯電話があれば誰でも生中継が出来る時代だ。私は深夜、エジプトで起きた暴動をアルジャジーラTVの生中継で見ていた。そこにはまごうことなき今があった。そして、その生中継を知ったのはツイッターのリツイート(拡散)であった。彼は「市民が装甲車や救急車になぎ倒されて、次々と下敷きにされている」というような呟き。そこに生中継のリンクがはってあった。そこにはマスメディアに加工されない生のままの現実があった。

その映像を見たときの衝撃はアメリカで起きた同時多発テロの映像をみた時にと同じ感覚だった。まるで当然であるかのように流れるそのショッキングな映像。まるで現実感がない、しかし現実であるようだ。地上波のニュースとはショッキングさの次元が異なっていた。呆気にとられる現実があった。
「マスメディア崩壊だな。上杉隆さんが書きそうなテーマだ。それとももう書いたのかな・・・」と一人ごつる。
マスメディアが不要なわけではない。ただし今のようなマスメディアなら、無い方がましである。

ネットはついに力を得たのだ。しかも急速に。そしてそれはもう止められないと感じた。これがいい方向性にいくとは必ずしも言えないが、新たな時代の幕開けでは往々にしてそのようなものである。恍惚と不安は1セットであるからだ。強い力はなんであれ良いめん悪いめん双方もつだろう。新たな権力構造を生み出むだろう。望もうが、望むまいがやってくる。
エリック・ゼムール氏の「女になりたがる 男たち」を読んだ際に、「最早政治家がコントロール出来るのはその程度の内容しな残されていない」といった旨の記述があった。日本の政治情勢を思い起こしてもうなずけた。あのアメリカですら、あれほどのカリスマ性をほこる大統領ですら断りなしに何もできない。そして同意を得ながら何かをすることは不可能なのである。ましてや潮流をかえることとなると・・・。自らの認識の古さに血の気が引いた。

期せずして、年始のご挨拶に回った折、よく議論を交わす社長が仰っていた。政治家の体たらくに不満たらたらの私に対し社長が、「政治家や国家に何かを期待する時代は終わっているんじゃないかな。最近そう感じたよ。もう個々がやるしかないんだよ」
私「・・・イタリヤのように、ですか。・・・確かに。個々のネットワークを活かして・・ですね」
社長「そうそう」
この時はまだ、これほど鮮烈には感じていなかった。日本もとっくの昔にそうなっていたのかもしれない。フランスは少なくとも数年前にはそうなっていたようだ。今の日本をみても頷ける。世界はそういう潮流にあったのかもしれない。特に新興国と呼ばれる国々や、今まさに伸び盛りの国はそうなのだろう。これは以前から言われていたデジタル差別の始まりを意味するのではなかろうか。過去の世界観を前提とした人と、これからの世界観を前提とした人とでは、まるで話が噛み合わないだろう。いい例がこの放送だと思う。前提を共有できていなかに思う。新しい世代は旧時代と現代を把握して話すことが出来るが、旧来の世代は現代の把握が出来ないので、旧来のスタンスでしか話しようがなく議論にならない。どちらが正しいというのではなく空転している様子が伺える。

朝まで生テレビ


私は彼を支持も非難もしない。実際それほど間違ったことは言ってはいないと思う。それどころかこの論者の中で全体を把握出来ている人はこの人と、あと一人ぐらいしかいないような気がする。彼について残念に思うのは、今ひとつ信用出来ないと感じてしまう点だ。過去の行動しかり、著書しかり。彼は「自分の欲望」に対して極めて純粋に行動しているように思う。欲を実現させるために金を集めているだけで、お金そのものにはそれほどのこだわりはないように思う。それ自体は間違っていないと思うし、むしろ私はその純粋なる動機に感動的な男を感じ羨ましいとさえ思える。彼はヒーローになろうがヒールになろうが結局得をする計算の上で行動を展開していることも理解しているつもりだ。故に非難する気もない。ただ、彼の純粋なまでの欲に相容れないものを感じてしまう。あの一連の件で亡くなった方のことを思うと私はどうしても彼の行動は理解の範疇を越える。無関係とは言い難い。さりとて一人の人間が全ての関わることに責任を持てるかといえば否である。身近な製品に目を向ければわかる。無視できない現実であり、ある種の特権であるがゆえに我々はこうした生活を可能にしている。それについて圧倒的大多数は悲嘆にくれてはいないし、改善をしようともしていないだろう。ある種の無責任を包容しているから生きていけるのだと思う。私が15年前にせめてゴミの分別を、とやりだすと周囲の人間から「あんた一人がやってなんの意味があるんだ」と糾弾されたものだ。今はそう言った本人が私以上に分別してはばからない。危機感の問題だと思った。危機に対する距離感が違うのだ。それが敏感かどうか、広いか狭いかである。私の距離感では、あの一連の件はけして遠いものではないはずだと思った。しかし彼の行動を思うに、彼にとっては我々の日常製品の背景が遠いように、あの一件は遠いからああした反応だと思う。だとしたら、私とはあまりに距離感が違いすぎる。到底信用がおけないとなってしまう。個々の関係であれば最後は理論よりも距離が決めるのではないだろうか。

ネットは大きな力をもちつつある。国家やある種の巨大システムは、その大きさ故に機敏さがきかず、内部調整を重ねているうちに機能しなくなる。尻の落ち着かない時代の始まりだ。こういう時は確固たる自分のスタンスを持ちつつ柔軟性を失わない姿勢が何よりも肝心なのかもしれない。どのみち明日のことは厳密には誰にもわからない。柔軟性が必要だ。自分が固まっていることにはなかなか気づかない。それをまた解きほぐしてくれた。