2011年2月5日土曜日

稼ぐこと、生きること

最近何かと考えることがおおい。
生きることとは何か。
私は小学3年生の時から特定の死生観が出来てしまっていた。
大人にも間接的に相談したが、その都度奇異な目をされたり、まともになとりあってもらえなかった。
その結果、自己の最大限の翼だけで羽ばたかざるおえず、その結果そうしたある結論に至った。

生かされている以上は生きることに徹する。
しかし、どうせ皆死ぬのだから全ての行いに大した意味はない。
金持ちになろうがなるまいが、
凄い技を身につけようがつけまいが、
結局は死んで過去になる。
今を生きるモノにとって、普段生きるには過去はそれほどの意味をなさない。

これが根底にずっとあった。
努力をしてから亡くなっても、
努力をせずに亡くなっても、
亡くなっている以上、当人には関係がない。
大した意味はない。

今思えば、この「しかし」以降に悔いを感じる。
羽を伸ばしたつもりが、自ら羽を伸ばす行為をやめていたようだ。
今でも意味はそれほどないとは思う。
ただし、子供たちは大人たちの生き方に多大なる影響を受ける。
なぜなら大人たちが社会を形成するからである。
なくなったモノにとっては大した意味をもたないかもしれないが、残された子供たちにとっては大きな今を形成する元となっていることは間違いない。子供たちが笑顔をおくれるか否かは大人たちにかかっている。もし、負の遺産をそっくり残し希望のかけらも粉砕して自分はなくなったとしたら、果たして関係ないのだろうか。

確かに関係ないのかもしれない。
自分はすでにこの世にはいない。
しかし、悔いな残るかもしれない。
それでも関係ないのかもしれない。
すでにこの世にはいないのだから。

私には子供はいないが、甥子たちを大切に思っている。
彼らの笑顔が少なからずえられるように思う。その力になればと。
その為には、まず自分が羽を伸ばすことが大切だと考えている。
羽の伸ばし方を口ではなく具体的にさししめし、羽ばたいてみせる。
子供たちはその方法をみて、自らも羽を羽ばたいてみせる。
その方が無駄がない。
口では何も伝わらない。
そういう意味では歴史もそうだ。
すでに羽ばたいてみせた。その場にはいなくとも、その痕跡を伺えることはできる。
としたら、意味はあるのかもしれないと最近思えてきた。

稼ぐことと、生きることとは切っても切り離せない関係だ。
しかし、同一ではない。
生きるには稼いだほうがより素早く行動にうつす元になる場合がおおいというだけに過ぎない。
手段であって目的ではない。
思えばココをずいぶん勘違いして生きていたと思う。
稼ぐことと、生きることとが同一な人は稀のように思った。
今一度リセットし、生きることを第一義に考えたいと思う。
その上で稼ぐことも忘れていけない。
今までは、稼ぐことを蔑ろにしてきた気がする。
上手に稼げば、それは生きることに繋がるのではなかろうか。
生き金にしたい。

私は人間にとって最も大切なのは「仁義」と思っているタイプだ。
母に昔から「まるで昔の人!そんな考えお爺ちゃんの世代だよ。今はそういう時代じゃないの!」と叱責を浴びたものだ。
それでも仁義は何よりも失ってはいけないものに思える。今でも1年1度は「不器用な生き方にもほどがある。別な意味でお父さんそっくり!」とか「だから結婚できないのよ!連れ込んでやるぐらいの気概を持たないと」と言われることもある。ご切ごもっともだ。それは極端にしても、いささか頑な過ぎた人生だったことは間違いないようだ。生きている以上は柔軟でないと十分には生きられない。

仁義は愛に似ている。
損得ではない。
地位も、お金のあるなしも関係ない。
その生き方は稼ぐ上では能率が悪いかもしれないが、生きる上では能率が良いと思う。
羽ばたいてみせよう。
上手に羽ばたければ、子供たちもそれをみて真似するだろう。そして、それをベースに自分なりの上手な飛び方を模索できるとおもう。良い手本がなければ大変だ。全て自分で見出さなければいけない。それは才能がある人にとっては容易いことかもしれないが、普通の人にとっては大変なことである。今の大人たちが上手に羽ばたけていないからこそ、今の子供たちもできないのだと思う。才能のある子は自ら独自で羽ばたき方を見つけている。ただ、それは極一部に限られるだろう。
自分が上手に羽ばたいてみせよう。
地上を歩く親鳥に、飛び方を学ぼうとする小鳥は上手に羽ばたけないのも頷ける。
まずは親鳥は上手に飛べないことには話が始まらない。それが最も自然だ。

今更だが、
硬くなった羽をパタパタと羽ばたいてみる。
恥ずかしいが仕方がない。
今を十二分に受け止めた上で羽ばたく練習をしよう。
子供と違い、
それなりに生きてきたので概ね方法はわかっている。
後は羽ばたきながら模索するだけだ。
そして結果が出れば、子供は必ず見ている。